真希波・マリ・イラストリアスは何故「ヱヴァ」には必要とされたのか?

昨日の話の追記みたいなモノなので、以下はまた折り畳んでおきます。
映画館で観てない人は是非とも明日以降観に行ってから読んで下さい。お願いします。
俺程度の妄想であの楽しみを削るのは勿体無いです。



では、色々書いて行きましょうかね。



真希波と言う存在が何故「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」に必要だったのか?

昨日のエントリでは、この重要なファクターであった新しい存在について全く触れておらず、既存のキャラクター語りに夢中になっていたので、今日はこの子の存在価値についてだらだら妄想してみようと思う。

俺が個人的に思うに、この真希波・マリ・イラストリアスと言う人間は

90年代から抜け出そうと足掻くシンジをゼロ年代へと導く世代代表として

この物語に在る事を許されたキャラクターなんじゃないだろうか。

何故、そのような解釈するに至ったかは、それは彼女の「エヴァ」の劇中での異質性から見て取れるんじゃないかなと思ってて。


彼女は、新劇場版冒頭からエヴァに乗る事に何一つ疑問を覚えていないし、痛みに対してもそれを気軽に受け流し(寧ろ、痛みすらも生への実感へとシフトさせて)「エヴァに乗る事」をすら純粋に楽しみ、そして、何より「自分の都合に大人を巻き込むのは気後れするなあ」と軽く言い放つだけの強かさを兼ね備えてる。

この現実への対応、強かさは将にゼロ年代としての「初めから希望が存在しない事が前提で主体的に世界へ働きかけていく」と言う特徴で、決して90年代が持ち得なかった現実への対応力を持ち合わせたキャラクターとして意識的に造形されているように感じる。

エヴァの世界でも、海から生き物が消え、使徒と呼ばれる存在が人間へと敵対行動を取ってくる緩やかな終末へ流れる「希望*1」のない世代。現実の世界でも、生まれて物心付いた頃には下り坂を折り始めていて、今尚緩やかな終末へと確実に流れて希望よりも諦観を上手くコントロール術を身につけた世代が今の世代で。


そういう現代、ゼロ年代の代弁者として真希波・マリ・イラストリアスが存在してる。

その上で彼女はあえて新劇場版の屋号から外された「新世紀」の先導者として唯一しなければならない役目「90年代思想の亡霊をゼロ年代―詰まり、現在進行形で進む世界―に引っ張り上げる事」を果たさんとして今回新しいキャラクターとして現出したのではないかな。


だから、彼女自身が学園パートに登場する事は無い*2―あれは90年代が王道を取り戻す為の再構築の場で「破」を必要とする場面ではないから―訳であえて出番を冒頭と中盤、終盤と其々に相応しい尺で登場を願ったんだろう。


彼女自身が「破」の劇中で最も必要とされるシーンである「二号機に乗り、敗戦し、シンジとコミュニケートする事」も既存のどのキャラクターにも変わりが出来ないんだよね。あれは、今を進んでいる人間―キャラクター―からのメッセージだから。過去を引き摺った既存のキャラではあの役目をきちんとロールし切れなかったと思う。

過去を引き摺り、一端はまた過去、前回と同じ過ちに身を染めているシンジに対して、「いい加減それ辞めない?時代は進んだんだし。」と言うメッセージを発し、シンジが90年代と言う殻を破り、ゼロ年代へとシフトするあのシーンの為だけにマリは存在していたと言って良い。


前回エントリでもだらだらと妄想した通り、この新劇場版は90年代から抜け出そうと足掻く人達の物語だと思ってるんだけどそれを上手く救い上げ、ゼロ年代へと教育するエデュケイターとしてマリがいるんだろうなーとか考えてた。




と、ここまで考えて、なんか皆当たり前にこういう言説だったら、当たり前の話を書き散らしてて無知なようで恥ずかしいな・・・。
映画観て豊洲から帰ってきてから、ずっと頭ん中でぐるぐる積んでは崩し積んでは崩してて、まだどういう感想を皆が持ってるか確認してないし。今からちょろっとエヴァが全体にどういう評価をされているのか位は観てこようと思います。

*1:90年代以前の考えるような

*2:中盤、限定的に出ては来るけど、あれは「学園パート」の間隙を縫って存在するパートと解釈しているので